日本で生きる上で必要な「日本語の力=国語」が最低限出来ない子どもたちが増えてきています。
その現状について克明にリポートしているのがこの本です。
かなりの評判で発売から3カ月たっても特集記事などで取り上げられています。
国語力は親から遺伝しない
ここ数十年で遺伝子が解析され、能力の遺伝について随分解明されてきました。
運動能力については、親から遺伝することはよく知られています。
近年の研究で、音楽の才能も極めて遺伝率が高いことが分かりましたし、
数学の能力も87%遺伝するという研究結果が出ています。
しかし、国語については遺伝率も低く、生まれた後の環境や本人の努力次第によることが大半です。
だからこそ、アメリカなら英語、日本なら日本語を「話すこと・読むこと」ができないと、その国で生きていくのが困難になってしまいます。
日本に住んでいると、当然ながら日本語が母国語=国語となります。
同様にアメリカに住んでいると英語がアメリカの国語となります。
自国の言葉を操る能力にたけている方が、生きる上で圧倒的に有利になる事は説明するまでもないでしょう。
この本の非常にショッキングな例として紹介されている、「ごんぎつね」に対する現代の小学生の解釈が印象深かったです。
よそゆきの着物を着て、腰に手ぬぐいを下げたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きななべの中では、何かぐずぐずにえていました。
物語の後半、兵十の母親の葬儀で村人が集まり葬儀の準備をしている箇所を読ませてから、鍋で何を煮ているのかという問いに対し、ある学級の半数以上の生徒が
鍋で兵十の母親の死体を消毒している
死体を煮て溶かしている
などと答えたそうです。
- 共鳴力が少なくて反応が鈍い子が増えた
- 単純に国語が苦手というだけでなく、致命的に共感力がない子がいる
例として、ある生徒は他者や動物の不幸に対して、関心もなく同情心がほとんど感じられませんでした。
感情を問われる場面の解答について、何度こちらが説明してもまったく通じないのです。
また、指導しているこちらがぎょっとするような回答をする子もいました。
指導経験上、突拍子もない発想をする個性的な子はいます。
けれど、大人の背筋が寒くなるような発言をする子はそうそういません。
そういう生徒の皆が皆そうだとは一概に言えませんが、そのような受け答えをした生徒の中で、
と平然と口にする子も過去に存在しました。
語彙力の乏しさと経済的な貧困について
本書以外でも、教育崩壊している地域・学校のルポを読みあさっているうちに気付いたのですが、そういう現場では、生徒に”授業を受ける”という意識がなく、”我慢して教室にいるだけで単位をもらえる”と思う子が多いようです。
あるルポでは「自分たちは凶悪な動物を町に放たないようにする役割だ。」と教師が言っている場面がありました。
幼少期から自然と学ぶ環境ではなく、親からも放置されて生きてきたので、「自分たちは相当な我慢をして学校に来てやっている。」という不満を抱えているのかもしれません。
余談ですが、随分と昔に塾長は問題生徒が非常に多い荒れた私立校で指導した経験があります。
その学校は授業中も常に生徒が騒がしく、相手が教師であっても日常的に「死ね」「キモイ」「ウザい」などの言葉が行き交うような学校でした。
他の先生方は生徒たちが騒ぐに任せて授業を淡々と流していましたが、まだ若かった塾長は何としても授業を成り立たせると決心して、授業中は一切気を抜かず厳しい態度で臨みました。
すると、クラス内で「死ね!死ね!」の大合唱が始まりました。
ある生徒からは、
電車待ちの時、背後に気をつけろよ!
と脅されたこともあります。ご忠告通り、当時電車に乗る時は、常に左右前後に気を配るようにしていました。
そうやって耐え続けたある日のこと、ここが覚悟の見せ所だろうと思い、
うるさーーーーーーーーーーーーーーい!!!!
窓ガラスがびりびり震えるほどの大声で叱りつけました。
その瞬間、騒がしかった教室と両隣のクラスから聞こえてきた騒音が嘘みたいに一瞬で静まったのです。
その静けさは授業が終わるまで続きました。
学校も家庭も放置、周りは問題児ばかりという環境で育ってきた生徒たちにとって、もしかして生まれて初めて本気で一喝された経験だったのかもしれません。
本当に信じられないことに、それをきっかけにバッシングも収まり、生徒たちは以前より静かに授業を聞いてくれるようになりました。
それどころか、問題のあった生徒たちほど懐いてくれて、いろいろな話や相談ごと、担任やクラブの顧問になってくれと頼まれるようになりました。
とはいえ、初めての授業から普通の私語すらなくなるほど完全に静かな授業を行えるようになるまで、結局1学期いっぱいかかりました。
本気で生徒たちと向き合った分、体重もごっそり落ちました。若かったからできたんだと思います。
今なら気力・体力尽きて、多分絶対に死んでます…。
金八先生だって、あんなに問題続きで本当は2シリーズ目で死んでると思います。
ロンドン大学の研究で、家庭での言語使用状況と子どもの知的能力に高い相関関係があり、
という結論が出たそうです。
家庭での会話の質が、子どもの知力だけでなく情緒や思考力・想像力・表現力にまで影響を及ぼすというのです。
質とはつまり、語彙の豊富さや会話のセンテンスの長さ、論理的で丁寧な言葉遣いのことです。
語彙が貧困だと、先述した生徒たちのように「死ね」「キモイ」「ウザい」のような貧相で暴力的な言葉しか使えず、自分の考えや感情をきちんと相手に伝えることができません。
彼らがどれほど心の内で“本当は自分のことを理解してほしい。ただ認めてほしい”という想いを抱いていたとしても、望むような結果は得られず、人生においても非常に不利な状況に置かれてしまう恐れがあるのです。
子どものコミュニケーション力は、親のコミュニケーション力と関係が深い
とある有名な教育家の人が、入試問題を作成する私立中学の先生から聞いた話ですが、「国語の中学入試問題は、思いやりの心について取り上げた問題が多い」そうです。
その理由として、
学校側が人間関係に弱点のある生徒への対応に大変なエネルギーを使わされているという現実があって、問題を起こさない子にきてほしい。
という切実な思いがあるからだそうです。
「思いやり」の気持ちを与えてもらわなければ「思いやり」がある人には育たないように、親のコミュニケーションスキルを子どもはそのまま学び取ります。
家庭でコミュニケーションの基本を学び、またたくさんの本に触れることで読む力が向上することは証明されています。
文部科学省の調査で、本が500冊以上ある家庭とそうでない家庭で国語力に大幅な差があること、文化施設(美術館・博物館)体験や親の新聞・活字メディアを頻繁に活用する過程で育った子供は、国語読解力が高いこともわかっています。
本書では子供たちの国語力の不足を解消する試みとして、学校やフリースクールなどの取り組みが紹介されています。
しかし、あくまでもルポであり、根本的な解決方法については各家庭や教育機関にゆだねられている気がします。
自分だけでなく、相手の気持ちについても深く考え、理解し理解されるために、言葉を伝え合う力、これは今後、すべての入試にも必要とされる力です。
また、よく言われるように、国語力は”数学・理科の能力の基礎”とも言われています。
当塾としては、受験という人生の重要イベントを通して国語力を底上げし、今後も”一生の武器”となる指導を目指していきたいと思います。